第一章

馬たちの夜の世界

馬が、くらやみでどんなふうに過ごしているかを知ったのは、相棒カディが病気になったときだ。

カディが若馬の頃、疝痛(せんつう)でひと月ほど苦しんだことがあった。馬が疝痛で死ぬことはめずらしくない。私は毎日できるかぎりつきそい、夜は三時間ごとに目覚ましをかけてカディの様子を見にいった。ふだんは早寝早起きの生活をしているから、夜中にカディの暮らす森へ入っていったのはこの時が初めてだ。

馬たちが暮らす森は集落から離れている。県道からその場所へ続く脇道に入ると人のつくった光はもう見えない。車のライトを消せば、あたりいったいまっくらになる。

夜の森は昼と違う匂いがした。音の響きかたも違った。よく知る場所なのに、どこか知らない国に来たようだった。訪れる目的はカディの具合をみることだったから、意識のほとんどはそちらに向いていたけれど、幾度も訪れるたびにすこしずつ、夜の森とそこにいる馬たちの気配に私はなじんでいった。おそらく馬たちもそうだろう。彼らの領域にやってくる夜の訪問者に慣れていっただろう。

馬たちは夜中でもたいてい草を食べていた。なにかに触発されて、くらやみのなかで走り回ることもあった。森の奥に入ってしまって姿が見えないこともあった。

時折、馬たちは眠りについた。馬は習性として長時間眠り続けることはない。立ったままぼうっとしたり、座りこんでうつらうつらしたり、ごくたまに頭も肢も地面に投げだして束の間の深い眠りに入ったりする。群れでひとかたまりになって眠ることが多いのは、だれか一頭でも危険に気づけば、その気配に連動し、他の馬も瞬時に目覚めて動くことができるからだろう。

*

カディの容態にようやく回復の兆しが見えてきたある晩、私はカディのかたわらで一息ついてぼんやりしていた。草の上にすわって手元を照らすライトを消した。

光が無くなり、見ていたものが見えなくなった。自分の体も見えなくなった。まるで自分という存在の輪郭が消えてしまったようだった。こわい気持ちはなく、むしろ、くらやみのなかって心地いいんだな、と思った。私の心身は光あふれる世界より、くらやみになじむと知った。カディの息づかいが聞こえた。すこし離れたところに他の馬たちの気配があった。とても静かだった。

ふと、
ここは、馬たちの世界だ、
と思った。

私は馬を見るのが好きだから、これまでも機会があればいつでも馬を見てきたけれど、それは昼間の、ヒトの世界から見た馬だった。日暮れて私が家に帰り、朝起きて馬のところへ行くまでの間、あたりまえのことを言うけれど、ヒトがいない世界で、馬は馬として生きている。

そのことを、思考の筋道としてではなく、みずみずしい感触として味わっていた。

それにしても、馬とくらやみにいることの、このおだやかでしみわたるような喜びはなんなのだろう。人生で初めて経験する感情だった。

私がくらやみのなかで、こんなにもくつろいだ気持ちでいられるのは馬がいるからだ。カディや私の知る馬たちがくつろいでいる、それを感じているから私もくつろぐことができる。

馬たちがくつろいでいるのは、ここに彼らをおびやかすものがいないからだ。そうでなければ馬たちの気配になにがしかの緊張が含まれる。ここに、こわいものはいない。それはつまり、すぐそばにいる私についても馬たちはそう認識しているということになる。

なんだかすごいことだな、と思った。ヒトは馬に対していろんな思惑を持つけれど、馬はそうでないのだな。そして、ただここにいる、ということを認めてくれるのだな。

自分が、ヒトという種ではなく、輪郭のあいまいな生きものとしてこの空間にいることを許されている気がした。私はくらやみのなかで粒子となって拡散し、馬たちの世界に混じりこんだような心持ちになっていた。ヒトの認知の外にある広々とした空間から吹いてくる風が心地よかった。

それでも。やはり私はヒトだ。私がいるというそのことだけで、この世界が微妙に変わってしまうかもしれない。できることならこのまま輪郭のないぼんやりしたものでいられたらいいな、と願った。せめて夜明けが来るまでは。

*

ほどなくカディは回復し、私はふだんの暮らしにもどった。でも、馬たちの夜の世界を知ってからは、以前よりすこし早い時刻に起床し、家を出るようになった。そして、東の空が白みはじめる前の、夜がいちばん深い頃、くらやみのなかでカディと過ごすことが日課となった。[戻る]